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谷正安(海岸宗印)

 茶湯Iこ通じ、沢庵宗彰に帰依する往時の堺商人の典型であった。一男五女をもうけたが、二女、長男が相次いで折し、追善供養のため新寺創建を発願した。沢庵の協力を得て寛永5年(1628)祥雲寺を建立した。同16年には剃髪し誰を法印、号を海岸と称し、正保元年(1644)2月、56歳で没して祥雲寺境内に葬られた。没するに際し財産のほとんどを祥雲寺に寄進している。なお正安の娘で伊丹正重の室である月仙守桂尼が祥雲寺塔頭冷泉庵を、月仙守桂尼の妹、江岩宗清尼が同塔頭江岩庵を創建しているが現存しない。

祥雲寺

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縁起・由来

 山号を龍谷山、俗称松の寺といい、豪商谷正安を開基、沢庵宗彭を開山とする。
 徳川時代の初め、沢庵に帰依する正安は、夭折した子供の菩提のため寺院創建を発願した。だがそのころ、新地での寺院建立は法で禁じられていた。折しも大坂夏の陣(元和元年=1615)で焼失した南宗寺の復興に尽力していた沢庵は、同じく夏の陣で焼失した海会寺を南宗寺山内に移転再建し、その跡地に新寺を建立することにした。寛永2年(1625)から同5年にかけて正安は海会寺跡地に方丈、庫裡などを造営、瑞泉寺と号して沢庵を勧請開山に迎えた。これに伴い南宗寺と法類の縁が結ばれた。その後、同9年に祥雲庵、同16年に祥雲寺と寺号を改めた。
 正保2年(1645)12月に沢庵が寂して後は、しばらく住職不在であったが、万治元年(1658)に第二世天祐紹果が入山、以後、伝外宗佐、天倫宗忽とつづいた。元禄2年(1689)京都大徳寺大仙院派の輪住地(短期間に住職が交代する寺。住職争いやそれから生じる分裂を防ぐための寺院の護持法のひとつを輪住といい、住職が順次交代することを輪番という)になり伝心宗的が入山、このとき大仙院の末寺になった。輪番は明治までつづき明治から一代住職制になった。また三代将軍家光(元和9年=1623から慶安4年=1651まで在職)のときから幕府巡見所(幕府から派遣された政情、民情視察使の立ち寄り所)のひとつになっている。
 創建後、逐次寺域は整備され、仏殿、開山堂(昭堂)、鐘楼、小方丈などが建立されたほか、冷泉庵、江岩庵、妙玄庵などの塔頭が創建されている。昭和6年刊行の『堺市史』は、土塀をめぐらした約1300坪(4290平方メートル)の境内に、方丈、仏殿、庫裡、小庫裡、書院、鐘楼、唐門、土蔵、鎮守堂、納屋、門番所、墓地などが配されており、方丈の前には枯山水、方丈の後ろには松の寺の俗称が生まれた五葉松(明治末に枯死)が植わっていた後庭がある、と記されている。これら壮大な寺域は第2次大戦の大空襲で一瞬のうちに灰儀に帰した。
 昭和21年(1946)に一耕宗純が入山するや再興に着手、没収されていた寺地の払い下げからはじめ、今日の姿に復興した。
亀の庭

 方丈中庭にあり、亀を形どって石を組んだところからその
名が生まれた。兵庫県・出石市にある沢庵寺(宗鏡寺)にも亀の庭があり、なんらかの関係があると思われるが、詳細はわかっていない。
 一名松の庭とも呼び、明治末に枯死したが、かつては五葉松が植わっていた.臥龍松と名づけられ、豊臣秀吉が寵愛した松、また淀君手植えの松の一枝を谷正安が拝領して移植したと伝えられている。
沢庵宗彭

 但馬(兵庫県)出石の人、天正元年(1573)に生まれ幼少に出家し、大徳寺三玄院の春屋宗園に参じ諱を宗彰と改める。慶長6年(1601)堺を訪ね、その後、陽春庵の一凍紹滴に参じて印可(禅門で修行を大成した者に師が授ける証明)を受け沢庵の道号を付された。同12年に南宗寺の住職になり同14年には大徳寺の住職になった。このとき大徳寺には3日間しか滞在せずすぐに堺に帰っている。元和元年(1615)大坂夏の陣で南宗寺が焼失した際、現在地に南宗寺を復興、このとき境内に海会寺を移転し、その跡地に祥雲寺が創建されると勧請開山になった。
 寛永5年(1628)、大徳寺の出世問題にからんで出羽(山形県)へ流罪となる。許されて後は、水戸頼房、柳生宗矩、徳川家光らの帰依を受け、同15年には東京品川・東海寺の開山になるなど、東西の都に教線を張った。同年に国師号を下賜されようとしたが固辞し、大徳寺一世の徹翁義亨に下されるように奏上し、徹翁に国師号が贈られたという逸話が残っている。
 正保2年(1645)12月示寂、寂後、門弟や篤信の人たちによって南宗寺中興開山に定められている。和歌俳譜詩文にすぐれ、牧渓、玉澗に絵画を学んだほか、茶湯にも辿じていた。
方丈(本堂)

 昭和27年(1952)に建立、大阪の建設会社鴻池組、
和歌山県吉野の山林王北村又左衛門氏ほか多数の檀信徒の浄財をもって建てられた。本尊観音菩薩を安置する。


寂然塔

 沢庵示寂(正保2年=1645)6年
後の慶安4年(1651)に建立された沢庵の供養塔。以後、元禄3年(1690)に開山堂が落慶し、堂内に安置された。
 第2次大戦で開山堂が焼失し、寂然塔は現在地に移された。
鎮守堂

 第2次大戦で焼失したが、その跡地に戦後まもなく再建し
た。すべての人々、財産を守識する弁財天を祀る。


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中村諒容の襖絵

 昭和36年(1961)に旧庫裡に描かれたもので24枚
からなる。沢庵が愛した牡丹をはじめ松、竹、蓮、芭蕉を素材に遒勁澗達な筆致が広がる。
 餘容は明治生まれの女流南宗画(文人画)家。幼少から漢籍、国学、南宗画、 詩文に親しむ一方、参禅にもいそしんだ詩書画三絶の道人。昭和62年没。なお南宗寺方丈の襖絵(昭和59年完成)も餘容の手になる。

歓喜天堂

 昭和23年
(1948)年に建立。堀畑肝一氏ほかの檀信徒の寄進によって建てられ、方丈落慶までは仮本堂として用いた。歓喜天(聖天ともいう.富貴を得、夫婦和合、子を授かり、病を除く守護神)のほか「朱銀の石」を祀る。

谷一門の墓

 開基谷正安(海岸宗印)とそ
の妻オキク(悦窓妙喜)の墓碑が並ぶほか、谷一門の歴代墓碑がある。

枯山水

 江戸初期の作。京都・大徳寺の方丈前庭と構成で類似する
点が多く、祥雲寺第二世で、大徳寺の住職も務めた天祐紹果が手がけた。背後の土塀は俗に「屏風塀」と呼ばれる。
 第2次大戦の空襲で焼失したが、残った岩組をもとIこ−耕師が再現
整備した。巨岩はその形態によって東から富士石、鶏冠石、蚪虫石、霊芝石、臥牛石と名づけられている。大阪府指定名勝。




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戦後の復興

 数度にわたる空襲で灰燼に帰した祥婆寺の復興は、昭和21年(1946)の佐藤一耕師の入山によってその緒についた。一緋師は明治44年(1911)和歌山県すさみ町に生まれ、9歳で出家、妙心・南宗の両僧堂で15年に及ぶ雲水(修行僧)生活の後に祥雲寺住職に就任した。
 焼け野原の境内にバラック建ての仮本堂を設けたのにはじまり、方丈、歓喜天堂、書院、庫裡、鎮守堂などを相次いで建立しまた、枯山水、亀の庭を整備、昭和27〜28年ごろまでに今日の寺容がほぼでき上がった。なお、新しい庫裡は昭和62年に落慶した。
沢庵手掘りの井戸

 旧庫裡の典座(台所)にある。沢庵が掘ったと
伝えられる。開削以来、一度も枯れることがないといわれ、現在も使われている。しかし近年、水質が汚濁し飲料には適さない。

大野翠峰・岸本如草の句碑

 翠峰は、明治
24年(1891)堺市柳之町東に4きまれる。俳人として創作にいそしむかたわら、堺市文化財保護委員の立場から永年にわたって郷土史を研究した。昭和44年(1969)没。句碑は枯山水の横に建立されている。如草は市井の人、永年翠峰に師事した。


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